のりとはさみ

サッカーや本が好きな大学生の日記です。

12月29日

年末の4連勤を終えていよいよ2021年の仕事納めと相成りました、しがないアルバイターです。誰よりも早く退勤することを目標に掲げた4日間。休憩時間が一緒の同僚たちと外食を楽しんでしまったせいで食費がかさんでしまいました。

 

心残りなことがひとつあります。弟の誕生日だったのにプレゼントのひとつも買っていなかったことです。

仕事が終わる夜10時にはほとんどのお店が閉まっていて、開いているお店はコンビニや飲食店くらいしかありません。あれが欲しいともこれが欲しいとも聞いていなかったので、どうしようと頭を抱えてしまいました。結局コンビニしか開いてなかったのでお菓子を買いました。ハッピーターンです。ハッピー。

弟はハッピーターンのほかに、耳栓やら靴やら蒸気でホットアイマスクやらをもらっていました。

 

ところで、私が高校生のときに欲しかったものは何だっただろうと思い返してみると、当時特別欲しかったものなどはなく、いただいたものはどんなものでもありがたく受け取っていた気がします。欲しいと思ったものはいざとなれば自分で買いに行き、かといって自分で買うことができないものをわざわざ他人に買ってもらうのは気が引けるという性分が災いして、これが欲しいと他のひとに主張することが難しかったのです。顧みると、いまの私もその頃と大差ないです。

 

贈り物の中身は何でもよい、贈り物が何であれ送ろうとしてくれた気持ちに嬉しくなるものだと言ったら、おべっかになるでしょうか。でも、実際そういうものではないですか。

毎日が平坦になりすぎないように記念日にお祝いしているとしたら、お祝いをしている行為そのものが尊いのでどんな贈り物でも嬉しくなる。私はそう感じます。さらに言えば、特別な日だからお祝いをするのではなく、お祝いをする日が特別な日になるのだと思っています。

 

きょう、アルバイト先の先輩が、食事をして帰って来たかと思ったら小さな花束を手に持っていました。食事をするためのお金は花束に使ったと言うのです。昨日までそんな素振りをまったく見せていなかったので私は大変驚きました。特別な理由があるわけではなく、駅近くの花屋さんの前を通ったときに何となく花束を買いたくなり、店員さんに1000円で買えるものを見繕ってほしいと言って買ってきたそうです。

ついでに100円ショップで買ってきたという花瓶に差された花々は、机の上で確かな存在感を放っていて、とても華やかで素敵でした。

 

夜遅くコンビニのレジ台に大量のハッピーターンを置いたとき、弟に買うべきものは花束だったなと後悔の念が湧き出して、休憩時間に花束を買うという選択肢を持つことがなかった自分を恥じました。

だからか、いま私は無性に花束が欲しくなっています。何気なく歩いた街角で花束を買って、さりげなく大切なひとにお渡しできるような、そんな心の余裕も欲しいです。