のりとはさみ

サッカーや本が好きな大学生の日記です。

郡司和斗『遠い感』より一首評

前置き

文学フリマ東京73で、私は『短歌誌 えんこ』という本を販売した。その本のなかで、郡司和斗の歌集『遠い感』(短歌研究社、2023年)についての書評を書いた。

しかし、執筆にあまり時間を掛けられなかったこともあり、納得できるものは全然書けなかった。書評とするには分量が不足している感が私にも否めない。根拠が足りない。歌集全体を見通すほどの時間と根拠を用意できなかったのであれば、じっくりと一首に向き合って一首評を書くほうが楽しかったのではないか、という気がしてきた。

というわけで、今回は一首評を書く。一首評を書くのは初めてだ。誰も助けてはくれない。それでも書く。

 

一首評

定食屋のテレビに映る定食屋 こっちでは生姜焼きを食べてるよ

郡司和斗『遠い感』

作中主体は定食屋で生姜焼きを食べている。と同時に、定食屋に置かれているテレビには別の定食屋が映っている。テレビに映るのは、昼過ぎや夕方に放送されるニュース番組やワイドショー番組の類だろうか。番組の中の定食屋、あるいはレポーターに向けて、「こっちでは生姜焼きを食べてるよ」と思う。

 

この一首の下句について考えてみたい。

定食屋で定食屋を見ているという状況の中で、より丁寧に言うと番組のレポーターが食べているところを自分も食べながら見ているというという状況の中で、テレビの向こうに向けられた(おそらく無言の)呼びかけである。

そして、その呼びかけにはどことなく子どもっぽさや、状況への悪戯っぽい笑いの雰囲気が漂う。会話中の口調のようにくだけた口語であること。また、終助詞「よ」の効果として、「こっちでは生姜焼きを食べてる」ことなど知るはずのない他者にわざわざ教えてあげるような印象が伴うこと。どう読んでも14音をわずかにはみ出して字余りになることも踏まえると、大人らしさとは反対の印象をほとんどの人が受けるのではないか。

 

しかし、私には、下句を丸ごと使った呼びかけに、悪戯っぽい笑いの裏側に、簡単には言い表せないような感情が隠れているような気がしてならない。

この一首をより深く考察するために、一本の補助線——高野公彦の一首を引いてみたい。

流氷の輝りをテレビに見つつ食ふ南無ほかほかの炊き込みご飯

高野公彦『天泣』

上に挙げたのは、私が「定食屋」の歌を読んで思い出した、高野公彦の一首である。

郡司作と高野作では、歌の構成が類似しているように思われる。まずはテレビに映る事物(前者では「定食屋」、後者では「流氷の輝り」)を描き、視線はそこから、それを見ながら食事している作中主体とその手元の料理(前者では「生姜焼き」、後者では「炊き込みご飯」)へと移動する。

 

この二首で大きく異なっているのは、テレビに映るものと料理の関係性だろう。

まず、高野作。こちらではかなり明確な対比関係が示されている。テレビに映る「流氷の輝り」は遥か遠くにある冷たい他者である。その他者に対して、手元の「炊き込みご飯」は、「南無」と言いたくなるほどにありがたく、「ほかほか」であたたかい。この一首では、明確な対比を持ち込むことによって、炊き込みご飯にありつけた〈自分の生のかけがえのなさ〉が、大きな幸福感を伴って描き出される。

一方の郡司作では、定食屋のテレビに映るものは定食屋であるから、二者は類似している、あるいはほぼ同質といえるものだ。「定食屋のテレビに映る定食屋」は遥か遠くにある他者ではなく、遠くにいる仲間である。それどころか、自分のいる定食屋が取材対象としてテレビに映っていてもおかしくないという可能性の世界まで意識すれば、テレビに映る定食屋は、心理において自分と限りなく近しい他者だともいえる。

このとき、「テレビに映る」定食屋と自分とを区別するのは、「生姜焼きを食べてる」ことくらいしかない。だから、下句の呼びかけは、限りなく近い他者に向けられたつつましやかな自己紹介(自己主張)と読めるだろう。

 

郡司和斗『遠い感』について

郡司の作中では、いや私たちの生きる現代社会では、自分の生は他者の生とほとんど交換可能である。〈自分の生のかけがえのなさ〉を高らかに歌うことはもうできない。

郡司和斗はすでにその事実を一度受け入れているように思われる。受け入れているからこそ、そこから生まれる感情は、単純で明瞭なものにはなりえない。歌集『遠い感』に収められた短歌の中には、問いの形をとったものや、どっちつかずな態度を示すものが多い。

ケルベロスに生まれてみたい笑うこと泣くこと怒ること同時にできる

いくつまでゆるされキャラでいけるだろうアパートまでの葉桜の道

二席分使って眠ってる人に死ねと思って生きてと思う

っざけんなと思った夜があっていい なくってもいい 焚火の夜に

まばたきに似た電灯の無人駅からどれくらい歩いたんだ……?

会いたいとおんなじくらい会えなくていい うずまきに皮剝く林檎

おそらく重要なのは、同質なものの中から小さな違いを見いだす視線であり、「生姜焼き」のような小さな違いを表明するひとつひとつの選択である。ひとつひとつの視線と選択だけが自分を自分たらしめる。

郡司和斗は、あどけない態度の裏に、現代社会に向ける批評的な視線を備えている。瀬口真司による栞文に従うならば、その態度はある意味で「あざとい」ものだ。しかし、だからこそ侮れない。軽妙な文体の奥で、きらりと光る抒情と批評性が顔を出している。歌集『遠い感』は、私にとってそのような一冊だった。