SFペンギンの雑記

140字以上の文章を書きます。一人称は「私」。サッカーや本が好きな大学生。

大学のこと、対面授業のこと

先日、私が所属している学科のガイダンスに出席した。図書館を利用するために大学を訪れたことは昨年度に何度もあったのだが、それ以外の目的で訪れたのは半年ぶりのことだった。また、大学構内で同じ学科の学友と話したのも半年ぶりだった。

会話の内容は昨年度に何をしていたかとか、今年度の授業はどうしようか、といったことに終始したので特別な発見は得られなかったものの、そのような話を再び交わすことができるようになったという状況そのものが感動的だと思えた。ガイダンスで話されたことの大半は履修要項に書いてある既知の事実だった。ガイダンスの趣旨は説明よりも学生の再会にあったのだろう。

 

前日に電車の定期券を買ったとき、当日着ていく服に悩んだときにじわじわと湧き上がってきた新年度への実感は、学友の顔を見た瞬間に確かなものとなった。大学とはディスプレイに映る講師によるレジュメなどではなく、講師と学友と私が同じ教室に出席することなのだと再確認した。

 

オンライン授業にも利点はあった。

第一に、時間の制約と空間の制約が緩かったことだ。移動時間がなくなって満員電車に運ばれる苦痛から解放されたり、睡眠のためにも復習のためにも時間を長くとれたり、他学部の授業を履修しやすくなったり、大学以外の活動に時間を割きやすくなったりした。

もう一つ挙げるとすれば、大人数の授業で感じていた学生の私語に対するストレスから解放されたことだ。コロナ以後の大学では対面とオンラインの両者の利点を活かした授業を開講することを期待したい。

 

オンライン授業では代替できない対面授業の利点として私が考えるのは学友からの刺激だ。

私と異なった視点を持つ学生の発言や発表に心を動かされ、学友と時に指摘し合い励まし合いながら知識を蓄えたり文章を書いたりする刺激を、少なくとも私はオンライン授業のなかで体感できなかった。

 

そもそも、仮にオンライン授業が万能であったら、大学の授業そのものの明確な存在意義は考えにくい。講師が制作した動画やレジュメを視聴し、講師が制作したテクストを読んで理解し、課題を制作して講師に採点されるというプロセスが真に万能であるなら、大学でなくともほとんど読書で事足りてしまう。似たような関心を持った人間同士で集まって同人を結成して勉強会をしていれば、お高い学費を支払う必要もなくなる。

 

大学にこそできるのは、非常に大人数の人間が交流する場所を管理することである。

それまで他人だった人間が場所を共有したときに発生するコミュニケーションや学びは、キャンパスという場所でこそ発生すると私は思う。そして、その場所を管理することが大学の本分ではないか。

 

大学の施設維持費の減額を求める声は2020年度に多く聞かれたものだが、私はそこの減額を求めるのは間違いだと感じている*1。大学がその状態として成り立っているのは、現在在籍している学生だけではなく、これまでの全ての関係者の支えがあるからだ。施設だけではない。私が取得したいと思っている学位もまた、大学のこれまでの歴史の集積によるものだ。私が大学でできることはその環境を享受し、研鑽を積むことである。今年度こそはたくさん享受する。

 

ガイダンスに出席しているとき、同じ学科の学生との再会に刺激をもらっていることを実感しながら、自分のこれまでの大学生活で私はほかの誰かを刺激しただろうか、と不安になった。とにかく今年度は、自分のなすべきことがたくさんある気がしている。いろいろ悩み、考えるべきことがたくさんあって、それらに不退転の決意で向き合っていこうと思う。

 

小難しいことを賢しらに書いてしまった感があって文章を読み返すと恥ずかしいのだが、私の感情は次のように書き表すことができる。

学びたいことがあり、学ぶことのできる環境に感謝しながら、残り短い大学生活を謳歌したいと思う。

*1:授業の質が低下したから授業料を減額を求めるのは正当だと私も思う。ただ、大学もまた多くの人間の雇用を守らなければならない立場であり、大学にできることは限られていると想像するのは容易である。

映画『ファーストラヴ』のことなど

昼の穏やかな陽光と夜の冷ややかな空気とが行ったり来たり。まだ風は冷たいものの、いよいよ春が近づいてきた感がある。ここ数日は花粉症で体がだるい。

本当は映画を観た日曜のうちに文章を書けばよかったのだが、文章を書く時間を用意できずにいたらいつの間にか2週間が経ってしまった。怠惰ですみません。

 

 

 『ファーストラヴ』雑感

14日、『ファーストラヴ』を鑑賞した。映画館で邦画を観たのはとても久しぶりのことだったが、率直に言ってとても良い体験だったと思う。俳優の演技には引き込まれるものがあったし、映画のテーマに考えさせられることが多かった。何より『ファーストラヴ』は感想を書きたくなる映画だった。

 

なお、この記事では未だ映画を観ていない読者への配慮やネタバレ防止策を殆ど講じていないので、映画の内容を知りたくない方はこれ以上読まないことをお勧めします。また、この記事ではあくまでも映画『ファーストラヴ』の感想を書くので、島本理生による原作小説への言及は最小限に留めておきます。

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あらすじ

映画『ファーストラヴ』の公式サイトには、「なぜ、彼女は父を殺さなければならなかったのか? 直木賞受賞のベストセラーサスペンス、衝撃の映画化」とある。サスペンスとミステリーが日本で明確に区別され用いられているかはわからないが、この惹句のとおり、この作品のストーリーを動かすのは、アナウンサー志望の女子大学生がナイフで父を刺し殺した事件の動機を解明するというホワイダニット*1である。

アナウンサー志望の女子大学生聖山環菜は、テレビ局の就職面接の帰りに、芸術家の父を大学のトイレに呼び出してナイフで刺殺する。環菜の経歴と美貌が事件に対する世間の注目を集めていた。主人公にして公認心理士の真壁由紀はノンフィクション執筆のために環菜に取材、面会する。公認心理士という立場だからこそ踏み込むことのできる環菜の過去。彼女の受けた傷に光が当たると同時に、由紀の心の奥底に秘められた「初恋」の記憶が顔を出す。殺人事件の動機を解明するという軸と並行するように、由紀の過去がじわじわと明らかになっていく。環菜と由紀という2人の女性の心に刻まれたトラウマの正体をそれぞれの登場人物がどのように受け止めてクライマックスの裁判に臨むのか。そして裁判で明かされる衝撃的な真実とは。

 

映像作品としての意義

正直、今回の事件の動機を予想するのは難しくない。原作者の島本理生の名を知っている人にとってはなおさら想像しやすいのではないか。愛に傷ついた人(特に女性)が困難をどのように受けとめて乗り越えていくかというテーマは、島本の小説で度々描かれてきたものだろう。

それがサスペンスのプロットを伴うことで、さらには実写映画化されることによってより広い層に届くこと。これは映画『ファーストラヴ』の一つの意義だと思った。

そもそも日本では、女性の受けてきた苦しみとそれを告発する運動についての理解があまり進んでいないと思う。つい先日、総理大臣を経験したこともある老人が自身の女性差別発言を批判されてしぶしぶ職を辞するということが起こったばかりだが、これは2021年の日本社会におけるフェミニズムが発展途上にあることを示唆する出来事だった。先月にはどこぞの府知事が、フェミニズムの文脈で用いられる「ガラスの天井」という語をまったく異なる意味で用いて指摘を受けていた。為政者がこの有様なのである。

男性から受けた性的暴行やセクシャル・ハラスメントを告発する「MeToo」運動は、2017年にアメリカの映画界を中心に世界的なムーブメントへと広がりを見せたものだ。『ファーストラヴ』がこのMetoo運動を後押しするために制作されたものだと語るつもりはないが、少なくとも、観客がこの運動が起こったきっかけを理解するのを手助けするような映画であるということはできるはずだ。

 

主人公の由紀と女子大生の環菜、それぞれが男性の視線に深く心を傷ついた経験をもっている。あまつさえ、最も身近な男性であるはずの父の視線をも恐れている。

彼女らを傷つける視線の卑しさは、映像化されることで小説の文章よりもさらに生々しく映る。これは映画の中だけに存在する虚構ではなく、現代日本で女性がさらされてきた現実なのだと、誰にも打ち明けることのできない傷を隠しながら生きている人間がいるのだと、この映画は突きつける。

 

恋愛サスペンス映画という触れ込みに誘われた観客が、映画を通じて思わず内省させられる、『ファーストラヴ』はそんな映画に仕上がっていたと思う。女性はこの映画に深い共感を覚えるかもしれないし、男性は自分の人生を深く反省するかもしれない。その先で、人間がお互いに理解しあって愛しあっていくのだというメッセージをこの映画に感じた。

「ファーストラヴ」というタイトルは、初恋だけを意味するのではない。人生の最初に受け取るはずの親子「愛」を受け取れなかった人、受け入れがたい肉体関係を「これも恋愛なのだ」と思い込むことで受け入れようとした人、そのほか様々な人間関係に傷ついた人々が、お互いを理解して尊重しあえる相手との最初の本当の「愛」に出会うストーリー。それらすべての愛をこのタイトルが表しているのではないだろうか。

 

俳優たちの演技

何より聖山環菜を演じた芳根京子が素晴らしかった。環菜という人間に入りこんでいた。

劇中で環菜が登場するシーンの大半は拘置所の面会室なわけだが、そのガラス越しに、あるいはスクリーン越しに彼女の感情が伝わってきた。面会室では、場面ごとに感情の大きな揺れ幅があって言動が一致しない、客観的に言って「わからない」人間像を見事に演じきっていた。法廷でのシーンでは、自分の過去を乗り越え、公衆の視線と向き合うのだという覚悟が感じられる表情をしていた。登場シーンは映画全体で見ればさほど多くないのに、そのどれもが印象的に映った。

 

次いで、由紀の夫我聞を演じた窪塚洋介が素晴らしかった。環菜よりずっと登場は少ないが、由紀や弟の迦葉の過去を受けとめる穏やかな眼は作品に不可欠だった。こんなに深みのある役者だったとは。

個人的な話になってしまうが、この映画を観る以前に私はエーリッヒ・フロムの『愛するということ』を読んでいた。『愛するということ』に書かれたことを、『ファーストラヴ』で窪塚洋介の演じた我聞はまさに体現しているような気がした。

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そのほかの俳優陣もみなすごく上手く演じられていると感じた。木村佳乃の役への入りようは先の2人に負けず劣らず際立っていた。主演の北川景子は感情的な演技がよく似合う方だと感じた。この作品は演者の顔をアップに撮るシーンがやたら多くて、表情の些細な変化がわかりやすい。ただ、劇場の大きなスクリーンで観ると、やりすぎに映ったと感じる向きもあるかもしれない。

強いて言えば、由紀(北川景子)と迦葉(中村倫也)の大学時代を描く回想シーンのこと。色調やメイク、髪型などで大学3年の2人を表現しているのだが、何とも言えないちぐはぐさを感じた。こればかりは仕方ないのかな。

 

気になった点(ネガティヴなものも含む)

作中の重要なシーンについて

 映画化するにあたって、2時間に収めるための改変が行なわれている。原作に登場する人物がいなかったり、それによっていくつかのエピソードがなくなっていたりといった再構成の試みのうち、功を奏したものとそうでなかったものがある。

映画の最後に我聞の写真展を持ってきたのは良い改変だと思った。原作小説のラストではとある人物の結婚式が描かれる。小説でも映画でも由紀と我聞の和やかな会話で終わるのだが、原作の我聞のセリフ*2は、正直好きじゃなかった。映画版では我聞と迦葉の幼少時代を懐かしむものになっていて、より穏やかなエンディングになったと思う。

 

気になったのは病室のシーンに至るまでの過程。由紀が運ばれた病室の中で2人が過去を打ち明け、我聞が由紀のすべてを受けとめる場面はこの映画の佳境だったと言える。けれど、由紀を病室へと誘ったトラックの唐突すぎる登場に面食らってしまって、素直に感動できなかった。ストーリーの転換点にトラックが登場する演出にはもう飽きている。

 

私の部分と公の部分のバランス

映画と小説とで好まれるテンポは違うだろうから、映画版では原作小説よりもかなりスピーディーに動機の解明が進んでいく。そのせいで、公認心理士という立場だからこそゆっくりと「私」の部分に踏み込んでいくはずの由紀が、裁判とノンフィクション執筆という公的な目的のために張り切っている感じが少し強すぎるようにも感じた。

原作小説の時点で、ミステリの要素は正直弱い。「動機はそちらで見つけてください」という環菜の発言はフックとして申し分ないものの、明かされる真実や判決の結果には納得できない部分が残る。環菜や由紀がこれからの人生に向かって歩み始めるというプライベートな解決は十分だけど、納得のいく説明によって納得のいく判決結果が下るというミステリとしての解決には疑問も残る。

文庫本で350ページくらいの原作では、映画より内面描写に分量を割くことが許される。由紀の視点で描かれる登場人物の些細な仕草、その一つ一つには深長な意味が示唆されていて、ミステリの部分が弱くとも純文学的な要素で読ませる。

一方の映画では、広い観客層を引きつけるためか弱点ともいえるミステリの部分が押し出されていて、そのせいでミステリを期待した人が肩透かしを食らう可能性は否定できないと感じた。それぞれの登場人物に共感できる人は、映画でも十分に楽しめると思う。だが、共感できない人にとっては、ミステリとして退屈なものに映るかもしれない。

 

総じて、私は面白い映画だったと思います。

 

最近のこと

家から最寄りの映画館はショッピングモールの中にある。14日は日曜ということもあって施設全体がかなり賑わっていた。映画館も同様、予想以上に客が入っていた。昨年の春以前の生活はしばらく戻ってこないのだろうが、同じような生活ができる日は近いうちにやってくるような気がした

私は観終わった後に映画のことなどをあれこれ考えながら歩く時間が好きだけれど、ショッピングモールを歩くのでは視界に入ってくる情報が多くてなかなか集中しにくい。映画館だけの建物に行きたい。心置きなく都内に出られる日が待ち遠しい。

 

最後に。今年の実写邦画では、少なくとも『夏への扉 ―キミのいる未来へ―』と『Arc アーク』を映画館で観る予定。どちらも海外のSF小説を日本で実写映画化したもので、どんな映像が出来上がるのか興味がある。面白かったらまたこうやって文章を書くはずです。

 

読んでくれてありがとうございました。それではまた。

*1:なぜ殺人が起こったのか。

*2:「(略)今日が来て、僕もようやく由紀を独占できるよ」

古本

きょうは近所の古本屋に本を売りに行った。

きっかけは父に貸した新書が裏表紙に油染みをつけて帰ってきて、これは本棚に入れたくないな、と思ったことだった。先月本棚を整理したときに溢れた本がそこそこあったので、一緒に売ってしまおうと思った。

家から一番近い古本屋まで、紙袋に30冊入れて自転車で持って行った。けっこう重かった。

 

計29冊で700円と少しの売上げ1冊は表紙に折れ目がついているということで買い取ってもらえなかった。例の新書はどうやら人気があったらしくて400円の高価買取の対象だった。店員が裏表紙の油染みに気づかなかったのか、ばっちり400円の値がついた。僥倖だった。というより、その新書以外は1冊平均10円の査定というのが世知辛い。

 

正直、古本屋に売るよりインターネット上のフリマでセット売りするほうが高く売れるのだろう。けれど、梱包して発送するのがめんどくさい。まったく顔も名前も分からない相手に自分の中古品を売るのは気が引ける。だから安く買い取られるとしても古本屋に持って行くようにしている。

ただ、古本屋(特にチェーン店)の「商品」に貼ってある値札のシールが悪質だから、その古本屋では本を売るのみで本を買うことはほとんどない。中学生のときそこで200円の古本を買ったことがある。その本を読み終え、値札のシール(とても厄介、剥がしにくい)をはがしてできる限り綺麗なまま同じ店に売りに行ったら5円の査定だった。いま思えば現実はこんなものだと思うが、結局それ以降そこで古本を買ってない。

 

話が長くなってしまった。

売りに行く前に本を掃除しながらなんとなく考えたのは、私が本という物質を一番大事に扱っている時間は、売りに行く本を掃除しているときかもしれないということだった。読んでいて楽しくなかった本も、買って以降まったく読まなかった本も、売りに行く前に表面を拭いている時間だけは丁寧に扱っているはず。

 

きょうの725円は明日の映画鑑賞代にするつもり。全然足りないけど。

4連休。失われたひとときを求めて

11月24日。世間は23日までの三連休を終えて、きょうから仕事や学業に勤しんでいたのだろうと想像する。

私の場合は24日が大学の休講日となっていたので、きょうまで連休が続いていた。今回は自分の4連休について書こうと思う。ほかにブログに書くことは特に思いつかないし。

 

11月21日土曜日。大学に行ってきた。補講の名を冠した学部内の説明会的イベントに出席するためだった。この補講は全員必修というわけではなく希望者のみ出席するものだったのでこれを授業といっていいのかはわからないけど、それはさておき、授業のために大学に登校するのは10か月ぶりのことだった。

ここ数日コロナウイルスの感染者数が再び増加傾向にあるなかで、対面での補講が開催されるかどうか、実際に開催されたときにわざわざ大学行くべきかどうか、かなり悩ましいところだった。それでもなお出席したのは、やはり学友に会って話をしたいという気持ちが強かったからだ。

補講で話されていた内容はそこまで大したものではなかったが、先生方も学生もお互いに顔の見える状況で、お互いの距離を知りながら会話ができる状況そのものに安心感があった。きっと来年度は対面授業が増えるだろうという期待は先生にも学生にもあるのだろう、というのが伝わってきた。

教室に来ていた学生の半数以上が1年生だったのは印象的だった。そのうちの何人かと話をしたところ、授業のことや履修のことについて相談できる人間が身近にいないと言っていた。

 

11月22日日曜日。文学フリマに行きたかった。いろいろ考えた末、今回はパスしようと決めた。

昨年の同じ時期に参加した文学フリマでは、新しい発見がたくさんあったし、初めて一緒にお話しした方も多くてとても楽しかった。文学フリマは、既に社会人として働いてらっしゃる方とお会いすることのできる貴重な機会であるので、是非次回こそは参加したいと思う。

結局、私は家にこもり、授業で出された課題に取り組むことに一日を費やしてしまった。短くまとめた文章を3つ書いて提出した。

 

11月23日月曜日。祝日。勤労感謝の日。私は皆様の日頃の勤労を尊ぶ気持ちで、ありがたいことに勤労させてもらった。帰りに久々に家系ラーメンをたらふく食べて、帰宅後腹を下した。

 

11月24日火曜日。冒頭にも書いた通り、大学の休講日だったので実質休日だった。

外出したい気分だったので、吉祥寺に行った。5年ぶりだった。駅の近くをぐるりと回るように散歩したところ、前回来たときにあった店がなくなっていたり、駅前の雰囲気がまた変わった気がしたり、いろいろと落ち着かない気分だった。特に、自分が複数回行ったことのあるパスタ屋さんが3店舗も閉店していたのは大きな驚きだった。

小雨まじりの寒空ではあったものの、住んでいる街から出て散歩する楽しさはいっぱい感じた。初めて行ったパスタ屋さんで食べたタラコのパスタは美味しかったし、ド平日の昼に食べるケーキは罪の味がした。最終的には交通費と食事代だけで出費を抑えられたのが、自分としてはグッジョブ。

 

連休明けの気分は重いけれど、感染対策と心身の安息を両立できるような生活を心がけて、寒い冬を乗り越えたいところ。

11/13‪‪ ‬UNIQLO

きょうは、自分の人生で初めて昼に酒を飲んだ。朝から大学のオンライン授業の準備をしていたのに実際は休講日であったことにむしゃくしゃして、いや、正確には休講日のことを知らなかった自分に苛立ったので、冷蔵庫にあったレモンサワーを2本飲んだ。レモンサワーは新商品で、かなり冷やしてあったこともあり美味しかった。

だが、3時くらいにアルコールが回ってきた。ちょうどそのときは電車のなかで本を読んでいて、文字列が全然頭の中に入ってこないのが気持ち悪かった。頭が全然冴えなくて、結局寝た。もうしばらくは酒を飲みたくない、という気持ちにさせられた。

 

外出の目的は、きょうユニクロで発売となったジル・サンダーとのコラボ商品をチェックすることで、UNIQLOTwitterのトレンドになるくらい朝から大盛況だった。私は、シャツだけはなんとしてでも欲しかったので、サーバー落ちを繰り返すUNIQLOオンラインストアに張り込み、家を出る前にどうにか1枚購入していた。そのシャツの生地を自分の目で確かめようと外出したのだった。

頭がグワングワンするのをどうにか我慢して、UNIQLOに行ったら、平日の4時というのにかなりの人数が店内にいて、私と同じくジル・サンダーのコーナーをチェックしていた。そもそも私は人混みがとても苦手なので、生地とかボタンとかさえチェックしたらすぐにでも帰ろうと思っていたのだが、人が多くてなかなか踏み込めない様子だった。開店前は丁寧に平積みされていたであろうシャツやカシミヤのセーターが、店員の努力を蔑ろにすることを憚らない客によって、だらしなく棚の上に転がされていて、私はなんとも残念な気持ちになった。

で、結局シャツの生地とか、貝ボタンを使っていること(UNIQLOのほとんどのシャツのボタンはプラスチックだったと思う)とかを確認して、結構好きだな、と思ったのでシャツをさらに2枚買った。私はもともと出不精だし今回のコロナウイルスの流行もあって外出しないので、服は半年ぶりくらいに買った。まだ予定のない外出のことを想起しながら、服の買い物は楽しいな、と感じた。

近いうちに、きょう買ったシャツを着る機会が作れたらいいな。

やさしい気持ちで

大学の授業で自作の小説を提出することになっている。1,200字以内との制約があるとのこと。字数が少ないので余裕をもって書き切れるかな、と思っていたら締切が迫っているのにまだ書きはじめてすらない。思い返すと、創作の文章を半年くらい書いてない。何も思い浮かばないし、書きたいこともないので本当に困っている。

このブログを更新するのもかなり久々のことだ。誰かに伝えたいことが自分の生活のなかに浮かんでこないので当然である。

ところで、ここ数日はSuperflyの「やさしい気持ちで」に心を救われている。自分も越智志保のように歌えたらどれほど幸せだろうか、と思ったり、浴室で歌ったりする。実現不可能な願望。

この曲を聴いていると小学校のときの朝を思い出す。朝は6時くらいからNHKを見て、7時台はめざましテレビを見ていた。小さい頃に聞いていた曲のメロディを口ずさむと、当時は気に留めなかった歌詞の一字一句に感動することがよくある。

「やさしい気持ちで」は特に1番のBメロが好きだ。「信じあうことを恐れて 少しずつ臆病になってた うつむいたまま」という歌詞。字面を見るだけだとあまり気持ちよくはないけど、実際の曲のなかでは「うつむいたまま」のところにクレッシェンドがあって、伸びやかで力強い歌声がうつむいた気持ちを持ち上げてくれるような感じがする。さらに晴れやかなサビにつながって、活力があふれてくる。

後期は大学で授業を受けられると思っていたから、顔が見えないオンライン授業が続くのは残念だ。でも、歌を歌いながら授業を受けられるのは対面授業じゃあり得ないことだから、もう少しやさしい気持ちで頑張りたいと思う。

いまは何も書けないかもしれないと思っていたけど、どうにか700字くらいは書けた。とりあえず一安心。

youtu.be

6/17

2日ぶりです。

関東地方、梅雨入りしたと思ったら3日間ぐらい晴れていて暑い。5時から通り雨でも降ってくれたら梅雨らしくていいと思うけど、あまり期待できそうにない。すでに7月を迎えてしまったのかと見まごうほどの青空でびっくり。

課題が溜まっていたのでさっきn個終わらせた。アルバイトしに出発するまでの1時間半と、帰宅後から締切までの1時間半とで、レポートを書くスピードとかモチベーションが全然違う。追い込まれないと始めることすらできないのをそろそろ改善したい。

そういえば5/25に投稿するはずだったブログの記事を未だ書き終えてない。書いたときからきょうまでに考え方が変わっているかもしれないから自分にとっての消費期限が切れかかっている。昨日までの自分といまの自分が同一人物であることを証明できない、みたいな問いを思い出した。それとは全然関係ない記事を、今週末までにはアップしたい。

「約束の実行に拘束されることがなければ、私たちは、自分のアイデンティティを維持することができない*1

半年ぶりに読み返したらさらに読みやすく感じて、やっぱり読書にもタイミングがあることを再認識した。

*1:ハンナ・アレント『人間の条件』第5章33節、志水速雄訳、ちくま学芸文庫、372頁。