責任感がない人間は教師にならないべきだが、いっぽう責任感がある人間は教師を続けている間につぶれてしまうらしい。というわけで、責任感がほどよく欠けている人間が教師に向いているらしい。教員免許取得を目指す私の全ての学友よ、どうかご達者で。
私は意地の悪い人間だった*1。
中学生のときは、教師の名前をFacebookで検索して素性を探っていた。
中2のときに新卒採用されてやってきた数学教師のFacebookアカウントを見つけて、飲み会でビールを一気飲みしている動画を発見。彼の大学時代の写真を私のLINEのプロフィール画像に設定した。
高校生のときは、Ciniiの著者検索を使って教師の大学(院)時代の文章を探していた。部活の顧問の卒論が村上春樹論だとわかってからは、部活中に村上春樹の話をすることがなくなってしまった。
教員免許取得を目指す私の全ての学友よ、デジタルタトゥーを残すことなきよう。
私は成人したばかりの人間で、まだ人間の実態についてほとんど理解していない。教師だって一人の人間だから、それぞれの人がそれぞれの性癖を有しているのだろう。どんな性癖を有している人間が教師に相応しくないとか私に断定することはできない。
それでも、切なる願いを述べるならば、教師はその立場上未成年の人間の心や人生を容易に壊しうるということを理解していない人間には教師になってもらいたくない。
こんなことは当たり前だと思っていたんだけど、どうやらそういうわけではないらしい。厭になっちゃうね。
*1:いまもそうかもしれません。