のりとはさみ

サッカーや本が好きな大学生の日記です。

大学のこと、対面授業のこと

先日、私が所属している学科のガイダンスに出席した。図書館を利用するために大学を訪れたことは昨年度に何度もあったのだが、それ以外の目的で訪れたのは半年ぶりのことだった。また、大学構内で同じ学科の学友と話したのも半年ぶりだった。

会話の内容は昨年度に何をしていたかとか、今年度の授業はどうしようか、といったことに終始したので特別な発見は得られなかったものの、そのような話を再び交わすことができるようになったという状況そのものが感動的だと思えた。ガイダンスで話されたことの大半は履修要項に書いてある既知の事実だった。ガイダンスの趣旨は説明よりも学生の再会にあったのだろう。

 

前日に電車の定期券を買ったとき、当日着ていく服に悩んだときにじわじわと湧き上がってきた新年度への実感は、学友の顔を見た瞬間に確かなものとなった。大学とはディスプレイに映る講師によるレジュメなどではなく、講師と学友と私が同じ教室に出席することなのだと再確認した。

 

オンライン授業にも利点はあった。

第一に、時間の制約と空間の制約が緩かったことだ。移動時間がなくなって満員電車に運ばれる苦痛から解放されたり、睡眠のためにも復習のためにも時間を長くとれたり、他学部の授業を履修しやすくなったり、大学以外の活動に時間を割きやすくなったりした。

もう一つ挙げるとすれば、大人数の授業で感じていた学生の私語に対するストレスから解放されたことだ。コロナ以後の大学では対面とオンラインの両者の利点を活かした授業を開講することを期待したい。

 

オンライン授業では代替できない対面授業の利点として私が考えるのは学友からの刺激だ。

私と異なった視点を持つ学生の発言や発表に心を動かされ、学友と時に指摘し合い励まし合いながら知識を蓄えたり文章を書いたりする刺激を、少なくとも私はオンライン授業のなかで体感できなかった。

 

そもそも、仮にオンライン授業が万能であったら、大学の授業そのものの明確な存在意義は考えにくい。講師が制作した動画やレジュメを視聴し、講師が制作したテクストを読んで理解し、課題を制作して講師に採点されるというプロセスが真に万能であるなら、大学でなくともほとんど読書で事足りてしまう。似たような関心を持った人間同士で集まって同人を結成して勉強会をしていれば、お高い学費を支払う必要もなくなる。

 

大学にこそできるのは、非常に大人数の人間が交流する場所を管理することである。

それまで他人だった人間が場所を共有したときに発生するコミュニケーションや学びは、キャンパスという場所でこそ発生すると私は思う。そして、その場所を管理することが大学の本分ではないか。

 

大学の施設維持費の減額を求める声は2020年度に多く聞かれたものだが、私はそこの減額を求めるのは間違いだと感じている*1。大学がその状態として成り立っているのは、現在在籍している学生だけではなく、これまでの全ての関係者の支えがあるからだ。施設だけではない。私が取得したいと思っている学位もまた、大学のこれまでの歴史の集積によるものだ。私が大学でできることはその環境を享受し、研鑽を積むことである。今年度こそはたくさん享受する。

 

ガイダンスに出席しているとき、同じ学科の学生との再会に刺激をもらっていることを実感しながら、自分のこれまでの大学生活で私はほかの誰かを刺激しただろうか、と不安になった。とにかく今年度は、自分のなすべきことがたくさんある気がしている。いろいろ悩み、考えるべきことがたくさんあって、それらに不退転の決意で向き合っていこうと思う。

 

小難しいことを賢しらに書いてしまった感があって文章を読み返すと恥ずかしいのだが、私の感情は次のように書き表すことができる。

学びたいことがあり、学ぶことのできる環境に感謝しながら、残り短い大学生活を謳歌したいと思う。

*1:授業の質が低下したから授業料を減額を求めるのは正当だと私も思う。ただ、大学もまた多くの人間の雇用を守らなければならない立場であり、大学にできることは限られていると想像するのは容易である。